見立ての見立て

お疲れ様です

聖闘士星矢という漫画がありまして、そこに出てくるシャイナさんという女の聖闘士が、まあマスクをしてるわけですけど、そのマスクが外れて素顔を見られたとき
「女の聖闘士は素顔を見られたら、その相手を殺すか愛するしかないんや」
みたいなことを言ってたんですけど、現実界でも女の人ってそんな感じありますよね、なんとなく

と、まあ、本題とは全く関係無いことを書きましたが、気怠い年始ムードをフッ飛ばせ!ということで、どうも最近、見立て、とその効果、について考えます

見立てることによって事象を構造的に理解する、とか、一歩間違うと妄想でしか無いんじゃないか、というようなアクロバティックな見立てに非常にしばしば遭遇するのですが、そのことに一体どれだけの必然性があるのか?

現在のこの混乱を幕末期の動乱に例えて解釈の手掛かりにすることは可能なのか?
繰り返された歴史は果たして同じものなのか?

大筋で捉えるとか、文脈が似通っている、などということは人間の営為ですから当然だと思います

が、その文脈自体が、師匠から弟子に連綿と受け継がれてきたものと、現代の、検索してポン!の世代で、果たしてコモンたり得るのか?

前回書きました私の見立てですが、修二と彰が憧れて辿り着いたこの街、というのがマッチが憧れたアンダルシアなんだ、ということだったのですが、こういうものの場合、引用といっても差し支え無いくらい作品にいろんなギミックが散りばめられてる訳ですよね

それこそ、歌詞を検索して二つ並べてみれば明らかにその相似性に気付かざるを得ない

聴取者はそれを愉しむ、という、全く正当な音楽鑑賞の態度だと思うのですが、そもそも購買層が、アンダルシアに憧れて、を知っているのか?という問題になると、まあ、修二と彰、を買った人の半分以上は知らないんじゃないか

だとすると、この引用はなんなのか?
そしてそのギミックに掛かって変な見立てをする私はなんなのか?

一億総評論家時代、しかもウィキペディアなどの無敵のツールまで評論家が手にしてしまった時代において、純粋な創作や、純粋なヴィルトゥオーゾというのは存在し得るのか?

天然キャラの女の子が邪悪であることが周知の現在、純粋の、純粋性というものはどうなって行くのか?
そもそも、そんなものは昔から無かったのか?

私にはとても分かりません

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コメント: 2
  • #1

    sachi* (水曜日, 11 1月 2012 16:05)

    みょ~に納得。何となく

  • #2

    ひとみちゃん (日曜日, 08 4月 2012 10:49)

    ふむふむ。んだな~。